父親から受け継いだ柳町の姓。父親が取り寄せて戸籍や除籍を調査したところ、現代の記録に残るだけで、父親の出身地にて、父から見て5〜7代前から存在するとの事。 非公式の古い家系図などは、本家(墓守)にも存在しないらしい。残らなかったのか、残さなかったのか。
山奥にて、農耕民の集落全体が同じ柳町姓という事から見て、元々姓を持たない下流の人々だったのか。それとも一度それぞれの姓を捨てたのか。
そういえば、遡れる除籍簿の最も古い記録は、柳町性ではなかった。
父親が取り寄せた除籍簿で、最も古い記録によれば、その最初に記されている姓名は『モマクバラ スケエモン』。
『モマクバラ』という姓には、どのような漢字をあてるのかも分からない。 役所の公式記録とはいえ、手書きの古い記録の写しである為、聞き間違いや書き間違いがあるのかも知れない。
ここからは、父親がこのように考えていたのではないかという予想の話。
父親の出身地の近くには、太閤に攻め滅ぼされた勢力の支城があったらしい。 実際には、太閤が来る前に、治部の策謀で落とされたとか何とか。 支城が攻撃を受けたのか無傷だったのかすら分からないが、本城の方で降伏し、主が騙し討ちのように亡くなったとの事。詳細は歴史書に譲る。
その際、現在は山奥の中に凸凹した堀の跡くらいしか残っていない支城で、開城後の下級家臣や家族たちがどこに行ったのか、そんな些細な事は歴史に残らない。 もしかしたら・・・。
本城跡地に連れて行った際に、そんなふうに考えている雰囲気だったように思う。 本当のところは分からないし、歴史の表舞台でもない山奥の話はどこにも記録が残らない。
以前、読んだ家紋図鑑本によれば、柳町家の家紋は、我が家や集落全体で利用していたものとは異なるらしい。
丸に中陰蔦(まるにちゅうかげつた)(まるになかかげつた)
これが、我が家の家紋である。
蔦は生命力にあふれている事から、蔦紋は、家や家名の存続、子孫繁栄などを願う人々の間で、一時期、全国的に流行った家紋との事。
つまり、我が家の家紋は、以前は違うものだった可能性もある。
父親から受け継いだ柳町という姓は、ローマ字で「Yanagimachi」と表記する。 訓令式ローマ字の「Yanagimati」だと、発音が変わって「やなぎまち」とは読まれなくなるから・・・らしい。
雰囲気の発音なら「young match」でも良いかも知れないけれど。やはりちょっと違うかも。